研究レポートReport

第20回 内観力 『引退、、、、?』

年が明けて、1995年(平成7年)を迎えた。

昨年、11月に走った感覚を常に感じながら出来る範囲の練習を続けていた。

それは、まるで生まれたての赤ちゃんを大事に抱きかかえるような気持ちで
大切に、大切に育てるかのようであった。

年始早々、親父が変な咳をしていた。

普通の風邪を引いた時にする咳ではなく、あきらかに異常を感じさせる咳であった。
母も心配をして、"一度、病院で詳しく検査をしてもらった方がいいと"親父に話していた。
親父は、病院が嫌いな人であった。

1995年1月17日(火) 

朝、普通に起きてきてTVを見たら阪神高速道路が倒れている。
眠気眼で見ていたのが一変で事の重要さが理解できた。
見覚えのある、あの阪神高速道路が捻じ曲がっているのだから慌てふためいた。
冷静になって、TVの解説を聞いて大きな地震が阪神地区であったことを知った。

阪神淡路大震災が起こったのだ。

母の実家は、兵庫県の西宮市。
親戚、兄弟がいるので安否が心配で電話をするが、なかなか繋がらない。
しばらくすると、母の弟さんが公衆電話から電話をかけてきてくれた。

みんな無事であったのだが、母のお母さんがタンスが倒れてきて下敷きになり
骨盤の骨を折ってしまい、近くの病院に運ばれたらしい。
また、母のお兄さんの家は半壊してしまったそうだ。

事の重大さに、私と母と二人で母の実家に急いでいくことになった。

親父が飛行機の手配をしてくれている間、私は遠征用のバックに詰めれるだけの食料や水を詰めていた。
無事に飛行機の切符も取れ、昼過ぎの飛行機に乗って出発することになった。

母は、『私達が留守の間にお父さんも病院に行っておいて下さいよ!』と強く念を押して言った。

現地に着いたが、本当に悲惨状況であった。
詳細は割愛するが、自然の力の恐ろしさを身に沁みて知った。
避難場所の小学校で寒い冬にダンボールで寝たこと、プールの水を各階の便所まで運ぶお手伝いをしたこと、
子供の頃、よく乗った阪急電車の線路を歩きながら移動したこと、泥棒が多かったのでバットを握り締めながら留守を守ったこと、、、、、

母のお母さんの手術も無事に成功して、一応、安心して仙台に戻った。


仙台の戻って親父に報告した。
しかし、親父の咳は以前よりも酷くなっていた。
母が問い詰めたところ、まだ病院には行っていないという。
さすがの父も渋々、病院にいくことにした。

翌日、親父を病院に連れて行く。

控え室で雑誌を読みながら親父の検査を待っていたのだが
診察室から出てきた親父の顔を見た瞬間に、嫌な違和感を感じてしまった。
車の中で、何も話そうとしない親父の気を使い、こちらからは話かけずにいた。
自宅に帰り、母と私の前で親父が検査結果を深刻そうな顔で話し始めた。

"肺の写真を撮ったのだが、、、、影があるらしく、、、、肺癌かもしれない、、、、" 


親父の言葉を聞いて、頭の中が真っ白になり、私は言葉が出なかった。
これから精密検査のための検査入院をして最終判断をするらしい。
入院の準備をするために、仕事の引継ぎや段取りを私がやることになる。

とても、陸上をできる様な状況ではなかった。

入院する前に、親父が私に話があるといい、二人きりで話をした。
親父が言うには、肺癌の場合、転移が早いそうで発覚後であればそう長く生きることは出来ないという。

死を覚悟した親父の言葉は非常に重たかった。

私に対して、"すまない"という気持ちが痛いほど伝わってきた。


私は、この日、陸上競技を諦めようと思った。


そして、検査入院が始まった。
私も真剣に仕事を覚えようと必死であった。
あっては欲しくないのだが万一ということもありえる。
一途の望みを捨てないで、わずかではあっても希望を胸に親父を励ましてあげた。

願いが通じたのか、精密検査の結果、肺癌の疑いは晴れた。

しかし、別な場所に腫瘍が見つかり手術することになった。
肺癌でなかった事を親父に伝えると慢心の笑顔で喜んだ。
まだ、生きれるんだという気持ちが溢れんばかりであった。

月日は流れ、5月のゴールデンウィーク。

彼女(今の家内)との結婚を来年に控えていた。
その打ち合わせに、彼女とご両親が仙台に来られることになっていた。
親父の体調のことは伏せていたのだが、肺癌の疑いが晴れたので検査入院をしていたことと
腫瘍が見つかり、打ち合わせ後に手術をすることを伝えた。

もしもの時は、、、、

と考えていた私であったが最悪の展開にならなかったことに感謝をしていた。
親父のことも仕事のことも結婚のことも重なり、私の頭の中から陸上競技が消えていこうとしていた。

5月中旬、親父の手術が行われた。
けっこう時間のかかる手術であったが無事に終わった。
終了後、母と二人で医師から摘出された腫瘍をみせてもらい良性であることを聞き胸を撫で下ろした。
麻酔が切れてきて、虚ろな目をしながら手術の結果を聞いてくる親父に、

"大丈夫だよ! 良性だったよ! "

と何度も親父に話しかけた。


手術後、驚異的な回復を見せる父であった。
なんと、2週間で退院をして自宅で療養生活が始まった。
食欲も旺盛で、体重も順調に回復、リハビリ代わりに散歩も始めた。

そんなある日、親父から言われた言葉に驚いた。

"心配かけてすまなかったな~ 卓、もう一回走ったらどうや~ "

その言葉を聞いてビックリしてしまった。
もう、走ることはないだろう、、、、半分、引退した気持ちになっていた私だ。
丸々、5ヶ月練習をしていない状態であったから走れる自信など、これっぽっちもなかったからだ。

迷っている私に親父は、こう言ってくれた。

"自分で決めた引退なら構わない、しかし、ワシの精で、おまえが引退するのはおかしい、走りたい気持ちがあるなら走れ~"

この言葉を聞いて、昨年末から覚え始めてきた、"あの感覚"を思い出した。
それは、まるで封印を解くかのように、身体中に電気が走ったようであった。
阿部選手に勝ちたい、やめるなら勝ってからやめたい、、、、気持ちが一気に込み上げてきた。

"親父、ありがとう! 俺、もう1回、走る!" 


この時、すでに6月初旬。

次の試合は、7月に行われる宮城県選手権だ。
時間は、1ヶ月もない。
走りこみもウエイトトレーニングも補強も本当に何もやっていない。

出来るのか? 走れるのか?

不安だけが頭をよぎった。


久しぶりに宮城野原陸上競技場で練習を再開した。

不思議なもので、まったく練習をしていないというのに身体がすごく動いてくれるのだ。 



特に、昨年末に出来ていた動作が衰えることなく上手く出来るのには正直驚いた。
不安は一気に消えて、根拠のない自信だが走れると信じれる私が居たのであった。


親父の体調もすっかり良くなり、7月の宮城県選手権を迎えた。


この大会には、阿部選手は出場していなかった。

予選を1位で通過した。(11秒05 ±0m)

決勝では、なんと2位になった。(11秒08 -0.8m)

レベルの低い大会といってしまえばそれまでの話だが
全く練習が出来ていない状態にも関わらず2位に入り、8月の東北総体への出場権を獲得した。


東北総体まで、練習できる時間をもらえた事は嬉しかった。
同時に、いい走り方を極めていきたいと思い始めていた矢先に1冊の本に出会う。


新トレーニング革命 初動負荷理論に基づくトレーニング体系と展開  小山 裕史  



400mで速かった、伊東 浩司 選手が小山先生の理論で100mに転向して好成績をあげていた。
初めて聞く理論とあまりのも難しくて分からない内容に理解することが出来ないでいた。 

しかし、速く走りたい一心で分からないなりにも必死になって理解しようとした。

東北総体に向けて、少しでも遅れを取り戻そうと頑張って練習をした。


秋田県で行われた東北総体。

100mは残念ながら予選落ち。
4×100mも宮城県選抜Aチームで走るが6位に終わる。

この日の夜、ロービーで佐久間先生を囲んで、新トレーニング革命の本の内容を聞いていた。
書いてある内容が今イチ分からない私は、食い入るように佐久間先生の説明に耳を傾けていた。

"肩甲骨の使い方を、腕振りにおいての動作でいかにドライブを効かせた腕振りにして推進力を作るかや
 伊東選手の腕振りは、接地のタイミングに合わせて肩甲骨を使ってアクセントをつけているのではないか"

など、実技を伴いながら指導を受けていた。
当時、イギリスのリンフォード・クリスティ選手の走り方を観ながら佐久間先生が仰っていたことは
わざとバランスを崩しながら地面反力をもらって走りながらスピード生んでいき、腕をドラムを叩くかのように腕の重さを利用して
推進力を増すための腕の振り方をしていると学んだ。

説明を受けたからといって、すぐに出来るわけがない。

しかし、国体最終選考会まで後1週間しかない。
藁をも掴む思いで真剣に聞いた事を練習で意識的に行った。



期待と不安が入り混じる1週間が経った。


福島県で行われる国体の最終選考会の日。

プログラムを見たら阿部選手の名前がない。
詳しく聞いてみると、冬のスノーボードで骨折したらしく
ケガの治りが遅く、今年のレースは無理らしい。

しかし、もう一人、この大会に合わせて復活してきた選手がいた。

日体大卒で東北高校の講師をしていた高橋 敏之選手だ。
100mを10秒52の記録を持つつわものだ。

予選、向かい風1.2mの中、11秒00で走り全体の中でも1位で通過した。

決勝前のウォーミングアップをしながら、今までのことを静かな気持ちで思い返していた。
一時は、引退を決意して諦めた陸上競技であったが、また、こうして国体出場の夢を掴もうとしている。
阿部選手と勝負できないのは残念であったが高橋選手に負ける訳にはいかない。
いや、元気になってくれた親父のためにも負ける訳にはいかなかった。

"絶対に俺が勝つ!"

揺るがない気持ちを胸に秘めて、決勝のレースを迎えた。
この日の競技場はかなり強い向かい風のため記録を狙うには難しいコンディションだ。 

国体に出場するためには、高橋選手に勝つ以外になかった。

自分の力を信じて、1位でゴールを突き抜ける事だけを考えた。

号砲一発でスタート。
ただひたすらゴールだけを見つめて走った。
レースはほぼ互角でゴールまでもつれ込む展開。
フィニッシュする瞬間に高橋選手を横目で見ながらゴールテープを切った。

"勝った!"

走った者同士でしか分からない僅差での勝負の結果。
ガッツポーズをしてゴールの後を気持ちよく駆け抜けた。

向かい風3mの中、11秒13で優勝した。
2位の高橋選手との差は僅か100分の1秒差。(11秒14)
10センチ差で勝利することが出来た。

一番喜んでくれたのが両親であった。

今年の、あの状況の中で、まさか優勝出来るなんて思ってもなかったからだ。
特に、親父は本当に喜んでくれた。

"やったな、卓、優勝おめでとう!"

この言葉を聞いたときは、涙が止まらなかった。


後日、宮城県の国体選考会があった。
私は、一応優勝はしたのだが国体参加標準記録を破っていなかった。
私の心のどこかに、ダメならダメでもいいやと思う気持ちもあった。

ちょうど選考会のあった宮城野原陸上競技場で練習をしていた私の所に
選考会に出席していた後藤先生が近寄って来た。

"松村選手、内緒だけど、選手に選ばれたから頑張れよ!"

と教えてくれた。
後藤先生に深々と頭を下げてお礼を言った。

北海道国体から6年ぶりに国体に出場できる。
すぐに両親に電話で選ばれたことを伝えた。

翌月に迫った、福島国体に向けてトレーニングに励む私であった。

しかし、この福島国体で経験することが
私の人生を変えてしまうほどの出来事になるとをまだ知らなかった。




この研究レポートを書いている日は、各地域でインターハイの出場をかけて地区大会が行われている。

この頃の新聞には、毎年のように似た記事をよく読む。
その内容とは、県大会後、風邪を引いて練習が出来なかったが優勝できたとか
ケガで思うような練習が出来ていなくて休んでいて不安であったが優勝できたと言う内容のものだ。

しかし、地区大会で好成績を出した選手がインターハイを目指して猛練習をした途端、 

またケガを再発したり、いい走りが出来ない選手が多い。
今回の研究レポートでの私の場合も同じである。

私が、丸々5ヶ月もまともに練習をしていないのに走れたのには訳がある。

それは、"硬化"した筋肉や関節が練習をしないことで皮肉にも弛んでくるからだ。
"硬化"した身体では、いい動きをすることが出来ないし、逆にケガをしてしまう確率の方が多くなる。
しかし、ウエイトトレーニングも補強も走りこみをしなければ固めてきた筋肉や関節が徐々に柔らかさを取り戻してくる。

その結果、"動きにくい身体"から"動きやすい身体"に変わってしまうのだ。

しかし、当の本人や指導者はこの事に気付かない。
よって、あれだけ練習が出来なくて勝てたのだから、今度は目一杯頑張って練習すれば 

もっと、もっといい成績が出るに違いないと、また身体を"硬化"してしまう練習を積み重ねていき
残念ながら、動きにくい身体を作りあげてしまい、インターハイの本番でケガをしたり地区大会の成績すら出せない選手がいるのだ。

私の場合、動作改善の動作を習得していて覚えきった辺りで練習をすることが出来なくなった。

一旦、陸上を諦めたのは事実だが、普段の歩き時や階段を昇り降りする時に
この一度付いた動作のクセは、ありがたい事に無意識で出来るようになる。
実は、知らず知らずの間に日常生活の中で動作改善をしていることになるのだ。

現在、私が指導する選手達にも必ず、日常生活でも動作意識を忘れないで行うようにしているのは
自分自身の経験から得たものだからである。

ケガをしたくてする選手など一人もいない。

しかし、なぜ自分がケガをしてしまったのかを深堀して考える人は極めて少ない。
口を揃えたかのように、ストレッチが足りないのだ筋力が弱いからだと言われて真面目に行う選手達。
強化したつもりが逆にアンバランスになり余計にいい動作が出来なくなってしまう可哀想な選手達。
指導することは出来ても、ケガをしたら治療院に行けでは余りにも無責任すぎはしないか。

選手がケガをしたら、練習内容に何か間違いはないのかを探って欲しいと思う。

ある高校に指導に行った。
その先生の担当種目の生徒ばかり同じ故障で悩んでいた。
私は、生徒さんの身体を観た瞬間に原因が分かってしまった。
そこで、その先生の現役時代に故障で悩んでいたことはないかと尋ねたら
生徒と同じケガで悩んでいたことが分かった。

"指導している内容は、ご自身が現役時代にしていた練習と同じ。"

自分のケガをした部分と同じケガをしている生徒を見て気付かないのだろうか?
自分がしてきた練習を生徒がして、同じケガをしているの気付かないのだろうか?
自分の練習についてきて成績を出したら良い選手で、ケガをしたら生徒の努力が足りないのだろうか?

あまりにも生徒が可哀想である。

もっと、いい指導者にめぐり合っていたら世界が変わっていただろうに、、、、、



次回の内観力は、『伊東 浩司選手が、試合前にスクワットをしている、、、、?』です。 7月1日の予定です。

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