千葉国体

                                                                        みなさん、こんばんは!
先程、自宅に帰ってきました。
今日は、朝5:30に起きて準備をして
長男の篤君と一緒に千葉県で行われている国体を観戦してきました。

仕事半分、観戦半分でした。

20年振りに会った同級生や後輩、
先輩や先生方にもお会い出来て嬉しかったです。
時が経つとみんな変わりますね!(笑)

Y選手とも合流してトップ選手の動作を観ておりました。

ちょうど準決勝前のウォーミングアップを二人で観ていましたが
いろんな動作を観れて勉強になりました。

何の為にしている動作つくりなのか?

その意図に対して身体はきちんと動かしきれているのか?

感覚で行っているのか、それとも意識的に動かせているのか?

そして、一番動かないといけないところは動いているのか?

動かさないでいいところを動かしていないだろうか?

自分の内観力で、ジッ~と観ておりました。

私が現役時代と言えば、今から20年前くらい。
その当時に『速い』と言われていた”走り方”とそんなに変わっていない。
その先にあるものは、私が嫌というほど経験した怪我しかない。
他の選手もほぼ同じ、、、、

伊東浩司選手、その前は、阿部正道選手以来、
身体意識をしながら走り、見事な結果を出している選手がいない。
唯一、佐久間康太君が現在では取り組んでいるだけで
後の選手は、相変わらずの動作でした。

相手の身体の動作を目で観る。
そして、自分の意識を相手の身体の内側から観ることにより
相手の得意な動作、不得意な動作を読み取る。
また、硬化している部分を観ることにより
修正箇所を瞬時に見つける。

今日は、本当にいい勉強をさせて頂きました。

さて、明日から出張なので
今日は、早めに寝る事にします。

        感謝

About まっちゃん

◆1968年生まれ◆中京大学体育学部 体育学科卒◆競技歴 陸上競技15年◆自己ベストタイム100m 10秒5(手)10秒68(電)
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4 Responses to 千葉国体

  1. 二日酔い主義者 says:

    思わぬ出会いでしたね。篤君の真剣な姿勢が印象に残りました。
    お父さんに連れられて、もの凄いレースを見て・・・。
    一生忘れませんよ。

    開高健の、ある文章に「息子は、言葉やらアルコールやらに汚されても、この経験を忘れることは一生ないだろう」というような、ピュアな体験を確かにするものがありました。

    お子さんのピュアな見聞を開くことが「起動」したらば、これはラッキーですね。

    • まっちゃん says:

      二日酔い主義者 様

      ありがたいコメントを戴きまして誠にありがとうございます。
      先日の陸上記録会という『きっかけ』が来るまで我慢して待ち続けました。

      本人から、”速くはしりたい!”という言葉で出るまで、、、、

      小さい頃から、右脳タイプであることは分かっていました。
      難しい標識を一度見ただけで絵(図)に書いた時は驚きました。
      スキーに連れて行った時も、上手に滑る人のフォームを凝視しては
      すぐに自分の動きを合わせれるところにも、、、、

      ”子供の目”は、本当に素直に動作そのものを観ているんですね。

      今回も、成年100Mを予選から一緒に観ておりましたが
      1本走る度に、彼なりにつぶやいていました。

      また、久しぶりに会う仲間達に
      ”あんたのお父さんは昔、足が速かったんだから、あんたも速くなれるよ、、、、”と言われて
      戸惑いながらも嬉しそうな顔をしていました。

      いつか、親父の背中を追いかけてくれる日を楽しみにしている私でした。

               感謝

  2. 二日酔い主義者 says:

    何度読み返しても、父と子のあるべき姿を写してこれほど適切なものはない、とその都度感激する文章を贈りたい。余計なお世話であることを重々認識しつつ。
    先日の「月刊陸上」でバカ息子も触れていた作家、開高健の作品からの引用です。40年も前の作品です。

    「フィッシュ・オン」より(引用開始)
    ・・・・・・川の真中を一隻のボートがおりていくのが見えた。父と子が乗っている。いま、子の竿が弓のように曲がり、ぶるぶるふるえ、さきがほとんど水面につきそうになっている。見ていると父はボートを右にまわし、左にまわしして操りながら、子にたえまなく声をかけ、注意し、はげましてやるが、けっして助けてやろうとはしない。それが最大の援助である。自分でかけた魚は自分であげなければいけないのだ。着手したらさいご一人でたたかえ。やりぬけ。完成しろ。夢中になって竿にしがみついている子と、たえまなく声を発する父と、二人を乗せてボートは水と大魚にひかれて下流へ流れていった。
     子はおそらく生涯今日を忘れないであろう。子は成長して言葉やアルコールで心身をよごし、無数の場所で無数の声を聞きつつ緩慢に腐っていくことだろうが、父のこの叫び声だけは後頭部にひろがる朦朧とした薄明のなかでいつまでも変形せず解体しないで小さな光輝を発していることであろう。(引用終了)

    私自身、今現在「緩慢に腐って」いる最中ですが、学生時代にこの文章に出くわして、もし将来、子と向き合うのならば、誰ともわからないこの文章のなかの父のようなふるまいをしてみたいものだと強く思いました。

    ところが、自分の子が世に出現する前に、すでにこのようなふるまいが要求される立場に立っていたのです。教員という職業が、まさにそうなのでした。・・・以下略。

    先日、中途半端に紹介した開高健の文章を引用しました。

    長すぎる、かな。失礼しました。

    • まっちゃん says:

      二日酔い主義者 様

      千葉国体の翌日から出張でした。
      素晴らしい文章を書いて戴いておきながら御礼の返事が書けず失礼致しました。

      文章を読みながら、その光景が目に映りました。
      何度か読むうちに、私と息子達との映像に変わりました。

      体験を通じて、成長する息子達の姿を観れることほど幸せなことはありません。
      自分の力で成し遂げた後にしか得られない、『揺るぎない自信』
      木の年輪のように、大きくなっていくんですね!

      私も息子達に負けないように精進していきます。

               感謝

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