第5回 内観力 『ウェイトトレーニング編 NO .3』
『間違いだらけの鍛え方』
1988年ソウルオリンピックは印象に残るレースが数多くあった。
男子100Mのベン・ジョンソン対カール・ルイスの対決は未だに脳裏に焼きついている。
この大会でもう一人ずば抜けて凄かったのがフローレンス・グリフィス・ジョイナーである。
男子顔負けの筋肉の付き方、他を圧倒する加速力に度肝を抜かれた。
このソウル・オリンピックに同級生の青戸慎二君、笠原隆弘君が100M代表選手として選ばれた。
同じ大学でしかも同級生二人がオリンピックに出場するのは前代未聞であった。
私はこの年から頭角を現した。
きっかけは梅月寮の仲間とソフトボールをした時、
レフトを守っていた私に起きたことから始まった。
小学校、中学校と野球をしていた私は外野の守備が得意であった。
昔から足は速かったので守備範囲は広かった。
久しぶりに大好きであった野球を無我夢中でボールを追いかけていた。
試合が終わり寮に帰る車の中で同級生の森田繁雄君が話しかけてきた。
『まっちゃん、今日の守備の時に見せたあのピッチ走法いいね~』
となりに居た同級生の寺田浩史君も同じことを話した。
『普段の走り方は無理にストライドを伸ばそうとする走りだが今日の走りはまるで違ったよ!』
私はフッと我に帰った。
子供の頃の私は確かにピッチ走法だった。
自然と意識することなく走っていたのだが、
1984年のロサンゼルスオリンピックで四冠王を取ったカール・ルイスの影響を受けてか
当時はルイスの走り方を真似する選手が非常に多かったのである。
大きなストライドと大きな腕振りを小さな私の身体で同じことをしようしていた。
到底、私に合うはずがない走法で記録向上を目指しても無理な訳である。
今はよく分かるのだが、ルイスはモモを高くあげていたのではない。
ゆりかごやブランコのように押してあげれば元の場所に自然に戻るように
上がっているモモを速く下ろすことにより自然に反対のモモは上がってくるのだ。
しかし、当時の連続写真の解説ではルイスは地面を強くふくらはぎで支え、
モモをしっかり上げ大きな腕振りで推進力を出している、、、、と書かれていた。
それを見た選手はいわゆるモモ上げに精を出した。
100Mモモ上げなどの練習が当時は流行った。
本当にバカな話だが、大腿四頭筋はブレーキの役目もする。
ブレーキを鍛えるということは読んで字のごとく止まることが得意になる。
止まるということはスピードが落ちるということだ。
上辺だけで物を見る人達に翻弄されている選手達は犠牲者の何者でもない。
本当に強くなりたい一心で取り組んでいることが間違いであってはならないのである。
それから私は練習方法を全て変えた。
ストライドを無理に伸ばすのではなく出来るだけコンパクトに早く動かすピッチ走法に変えた。
そのためにゴムチューブを早く引き上げるトレーニングを取り入れた。
ウエイトトレーニングの内容も見直しスピード重視のトレーニングにした。
ジョギング、流し、ダッシュ、跳躍系のトレーニング全ての着地の瞬間を意識した。
いかに次の足を速く動かすかに全神経を集中させていた。
今思えば、この動作は居着きをなくすトレーニングになっていたと思われる。
そして速く足を動かすということはそれだけ身体全身を意識してコントロールしなければならない。
身体を速く動かすイメージをイメージトレーニングを行い脳に焼き付ける。
まるで自分の身体とお話するかのように身体を速く動かす練習に明け暮れた。
内観力の意識の芽生えはこの頃から知らず知らずの間に培われていった。
神経と筋肉を繋げていくような作業は自分自身の身体との体話ともいえる。
1988年の京都国体 成年男子 100Mの宮城県代表選手に選ばれた。
陸上を始めて6年目で初めて国体の選手になれた。
100Mと4×100mRに出場したが予選落ちであった。
この年のベストタイムは10秒70。
更なる記録更新を目指すために冬季練習に意欲を目指す私に
知らない方が良かった情報を知る事になる。
大学の授業の中でY教授が話した内容は
当時、もっと強くなりたかった私には何の疑いもなく聞いてしまった。
その内容とは、ソウル・オリンピックで活躍したフローレンス・グリフィス・ジョイナー選手の
動作分析とトレーニング内容であった。
このY教授の話を信じた私は翌年、大変苦しむことになる。
大学4年生 最後の陸上競技で天国と地獄を味わうことになろうとは
この時の私は知る余地もなかった。
次回の内観力は『間違いだらけのトレーニング No.2』です。
1988年ソウルオリンピックは印象に残るレースが数多くあった。
男子100Mのベン・ジョンソン対カール・ルイスの対決は未だに脳裏に焼きついている。
この大会でもう一人ずば抜けて凄かったのがフローレンス・グリフィス・ジョイナーである。
男子顔負けの筋肉の付き方、他を圧倒する加速力に度肝を抜かれた。
このソウル・オリンピックに同級生の青戸慎二君、笠原隆弘君が100M代表選手として選ばれた。
同じ大学でしかも同級生二人がオリンピックに出場するのは前代未聞であった。
私はこの年から頭角を現した。
きっかけは梅月寮の仲間とソフトボールをした時、
レフトを守っていた私に起きたことから始まった。
小学校、中学校と野球をしていた私は外野の守備が得意であった。
昔から足は速かったので守備範囲は広かった。
久しぶりに大好きであった野球を無我夢中でボールを追いかけていた。
試合が終わり寮に帰る車の中で同級生の森田繁雄君が話しかけてきた。
『まっちゃん、今日の守備の時に見せたあのピッチ走法いいね~』
となりに居た同級生の寺田浩史君も同じことを話した。
『普段の走り方は無理にストライドを伸ばそうとする走りだが今日の走りはまるで違ったよ!』
私はフッと我に帰った。
子供の頃の私は確かにピッチ走法だった。
自然と意識することなく走っていたのだが、
1984年のロサンゼルスオリンピックで四冠王を取ったカール・ルイスの影響を受けてか
当時はルイスの走り方を真似する選手が非常に多かったのである。
大きなストライドと大きな腕振りを小さな私の身体で同じことをしようしていた。
到底、私に合うはずがない走法で記録向上を目指しても無理な訳である。
今はよく分かるのだが、ルイスはモモを高くあげていたのではない。
ゆりかごやブランコのように押してあげれば元の場所に自然に戻るように
上がっているモモを速く下ろすことにより自然に反対のモモは上がってくるのだ。
しかし、当時の連続写真の解説ではルイスは地面を強くふくらはぎで支え、
モモをしっかり上げ大きな腕振りで推進力を出している、、、、と書かれていた。
それを見た選手はいわゆるモモ上げに精を出した。
100Mモモ上げなどの練習が当時は流行った。
本当にバカな話だが、大腿四頭筋はブレーキの役目もする。
ブレーキを鍛えるということは読んで字のごとく止まることが得意になる。
止まるということはスピードが落ちるということだ。
上辺だけで物を見る人達に翻弄されている選手達は犠牲者の何者でもない。
本当に強くなりたい一心で取り組んでいることが間違いであってはならないのである。
それから私は練習方法を全て変えた。
ストライドを無理に伸ばすのではなく出来るだけコンパクトに早く動かすピッチ走法に変えた。
そのためにゴムチューブを早く引き上げるトレーニングを取り入れた。
ウエイトトレーニングの内容も見直しスピード重視のトレーニングにした。
ジョギング、流し、ダッシュ、跳躍系のトレーニング全ての着地の瞬間を意識した。
いかに次の足を速く動かすかに全神経を集中させていた。
今思えば、この動作は居着きをなくすトレーニングになっていたと思われる。
そして速く足を動かすということはそれだけ身体全身を意識してコントロールしなければならない。
身体を速く動かすイメージをイメージトレーニングを行い脳に焼き付ける。
まるで自分の身体とお話するかのように身体を速く動かす練習に明け暮れた。
内観力の意識の芽生えはこの頃から知らず知らずの間に培われていった。
神経と筋肉を繋げていくような作業は自分自身の身体との体話ともいえる。
1988年の京都国体 成年男子 100Mの宮城県代表選手に選ばれた。
陸上を始めて6年目で初めて国体の選手になれた。
100Mと4×100mRに出場したが予選落ちであった。
この年のベストタイムは10秒70。
更なる記録更新を目指すために冬季練習に意欲を目指す私に
知らない方が良かった情報を知る事になる。
大学の授業の中でY教授が話した内容は
当時、もっと強くなりたかった私には何の疑いもなく聞いてしまった。
その内容とは、ソウル・オリンピックで活躍したフローレンス・グリフィス・ジョイナー選手の
動作分析とトレーニング内容であった。
このY教授の話を信じた私は翌年、大変苦しむことになる。
大学4年生 最後の陸上競技で天国と地獄を味わうことになろうとは
この時の私は知る余地もなかった。
次回の内観力は『間違いだらけのトレーニング No.2』です。