第8回 内観力『間違って鍛えた身体の結果』
今シーズン最初の試合、中京大学で行われる土曜記録会の100Mに出場する日の朝
布団の中で一生懸命やってきた冬季練習を思い出していた。
今年は勝負をすると決めた年である。
自分を信じて、勝利を信じて、いろんな事に打ち勝ってきた。
記録会前の確認練習でも手ごたえは感じていた。
中京大学に向かう前、梅月寮の自分の部屋で
お気に入りの音楽を大音量でかけてテンションを上げていく。
この頃、試合の前に聞いていた曲は、アン・ルイスの『六本木心中』だった。
ピッチ走法の私は早いリズムに合わせながら、100Mを一気に走り抜けるイメージトレーニングを
何度も何度も行いながら自分のレース展開のイメージを作っていた。
念入りにウォーミングアップを行い、身体の感覚を確認するのだが
まるで、暴れ馬を落ち着かせるかのように爆発寸前の状態だ。
いよいよ記録会が始まり、私の出番がやってきた。
スタートブロックを設置しながら集中力を高めていった。
100Mのゴールを見つめ、イメージした走りを思い出しスタートラインに着いた。
スタートの号砲ともに弾丸スタートダッシュで飛び出し、フル回転でピッチを上げて
一気のゴールを駆け抜けた。
記録は『10秒5』自己新記録だった。
記録を聞いた瞬間、思わずガッツポーズをして拳を天に突き上げた。
信じてやってきた練習の成果が出た事が本当にうれしかった。
安田先生も、あまりのピッチの速さにビックリされて誉めていただいた。
次の記録会でも10秒5を出した。
身体の動きはすこぶる調子がいい!
次の記録会は目標であった10秒3を目指す事だ。
ライバルの笠原君に勝ち、日本インカレに出場するためには
最低、10秒3を出したかったのである。
もうひとつ気になることもあった。
この年、新入生に鈴木が入ってきたのである。
(彼は後に日本チャンピオン、バルセロナオリンピックに出場する。)
日本インカレの4×100MRの選手争いに鈴木が加わった。
そして、3回目の記録会が行われた。
この記録会の成績で、東海インカレ、日本インカレの選考が決まってくる。
何がなんでも自己ベスト記録、目標記録である10秒3を出すと意気込んだ。
プログラムを見て驚いた。
なんと、鈴木と同じ組であり、しかも隣りのコースだった。
『負けられない!!』
闘争本能に火がついたかのように鬼の形相でウォーミングアップを開始した。
この勝負に勝てば、日本インカレの4×100MRメンバーになれる。
勝ことだけを信じてレースを迎えた。
鈴木を意識しながらも、いつもの様にゴールを見つめてスタートラインに着いた。
好スタートを切って、一気に鈴木を引き離した。
しかし、30Mを過ぎたあたりで左足大腿二頭筋に痛みが走った。
一瞬、やめようかと思った。
ものスゴイスピードの中で走りながら色んなことを考えていた。
゛ここでやめて、鈴木に負けたら4×100MRの選手にも選ばれない゛
やめる訳にはいかないと判断してそのまま走り通した。
軽い肉離れを起こしたまま走り抜け、記録は10秒5であった。
まわりに悟られないようにケガをしたようには見えないようにした。
気も張っていたせいでその場ななんとか誤魔化していたが
寮に帰る頃にはズキズキ痛み出したのである
友人に撮ってもらったビデオを見ながら動作をチェックして見たが
当時の私はなぜ?ケガをしたのかまったく分からなかった。
今は理解出来るのだが、大腿四頭筋の鍛え方を間違っていたのである。
ブレーキの筋肉を鍛えすぎるとスピードを殺してしまうのだ。
せっかく大臀筋やハムストリングでスピードを生んでくれているのに
大腿四頭筋の力が勝ると共縮になり筋肉にかなりのダメージを与えることになる。
逆収縮する現象に筋膜も筋肉も耐え切れずに傷めてしまうのである。
好調であった私は悲鳴を上げ始めていた筋肉の声を理解出来ていなかった。
もうひとつ残念で仕方ない事がある。
それは、親指で一生懸命に地面を蹴っていたことである。
当時、拇指球や親指で地面を力強く蹴れ(押す)と言われていた。
今、もし私が現役選手ならば決して親指は使わない。
なぜなら、親指の役目はブレーキを強くするためスピードを止めてしまうのである。
特にスタートダッシュの場面においては
まず、スタートブロックを蹴る(押す)時も親指がリードし
30Mまでは加速するために親指でしっかり地面に力を伝えて
スピードを生むものだと信じていたのである。
しかし、実際は逆でスピード止めるブレーキをかけていたのである。
フルアクセルを踏み込みながらフルブレーキをかけた車を想像して欲しい。
車が壊れても当たり前の話である。
私の身体が悲鳴を上げ、筋肉をケガしても当たり前の話だった。
悲しいかな、まだ親指で一生懸命に地面を蹴って(押す)いる人が後を絶たない。
東海インカレまで2週間しかない。
その2週間後は全日本インカレがある。
私は悩んだ。
東海インカレまでにこの足は治るだろうか?
しかし、打倒、笠原君で日本インカレの100Mに出場するために頑張ってきた。
でも、日本インカレまでには1ヶ月あるその頃には走れるだろう。
私は決断をして、短距離のコーチに相談をしに行った。
東海インカレをやめて全日本インカレの4×100Mリレーにかけさて欲しいと。
しかし、短距離のコーチからこう言われた。
『松村が4年間、努力した結果を出す時だ!しっかり東海インカレで笠原と勝負してみろ!!』
また悩みに悩んだ。
思わず父に電話をかけた。
今までの経緯をすべて父に話した。
『お父さん、勝ちたいんや!出来る事なら、どうしても走って笠原君に勝ちたいんや!!』
泣きながら父に訴えた。
泣きじゃくる私に父は力強い言葉で語ってくれた。
『短距離の先生がそこまでお前の男気を買ってくれているならば思いきって勝負してみんかい!』
父の言葉を聞いて、勝負することを決意した。
父も100Mの選手だった。
大阪チャンピオンで国体にも何度も出場し3位の成績を持ち
リレーでは優勝の経験を持つ猛者であった。
その父から治療方法を教えてもらい毎日針と温泉に通う。
梅月寮から一番近い、猿投温泉に通い半身浴で温めては冷やし
温冷、温冷を繰り返して強張った筋肉をほぐした。
毎日、温泉に入りながら泣いた。
もし、あのレースでケガをしなければ間違いなく10秒3は出たはずだ。
ケガで自分の夢が壊されていくのが本当に悔しくて心底泣いた。
励ましてくれる両親の言葉だけを信じて必死で不安と戦っていた。
そして、I先生のいる鍼灸院にも通い詰めた。
I先生には東海インカレまでには100%とは言えないけれど
70%位なら回復するだろう辛抱しながら頑張るんだよと励まされた。
本当に辛い日々であった。
ケガのない状態で笠原君と勝負したかった。
しかし、愚痴を言っても仕方がない。
自分を信じて足のケアをする以外何も出来なかった。
東海インカレまで後1週間、勝つことだけを信じて足の回復を願っていた。
次回の内観力は『ケガより辛い試合観戦』です。
布団の中で一生懸命やってきた冬季練習を思い出していた。
今年は勝負をすると決めた年である。
自分を信じて、勝利を信じて、いろんな事に打ち勝ってきた。
記録会前の確認練習でも手ごたえは感じていた。
中京大学に向かう前、梅月寮の自分の部屋で
お気に入りの音楽を大音量でかけてテンションを上げていく。
この頃、試合の前に聞いていた曲は、アン・ルイスの『六本木心中』だった。
ピッチ走法の私は早いリズムに合わせながら、100Mを一気に走り抜けるイメージトレーニングを
何度も何度も行いながら自分のレース展開のイメージを作っていた。
念入りにウォーミングアップを行い、身体の感覚を確認するのだが
まるで、暴れ馬を落ち着かせるかのように爆発寸前の状態だ。
いよいよ記録会が始まり、私の出番がやってきた。
スタートブロックを設置しながら集中力を高めていった。
100Mのゴールを見つめ、イメージした走りを思い出しスタートラインに着いた。
スタートの号砲ともに弾丸スタートダッシュで飛び出し、フル回転でピッチを上げて
一気のゴールを駆け抜けた。
記録は『10秒5』自己新記録だった。
記録を聞いた瞬間、思わずガッツポーズをして拳を天に突き上げた。
信じてやってきた練習の成果が出た事が本当にうれしかった。
安田先生も、あまりのピッチの速さにビックリされて誉めていただいた。
次の記録会でも10秒5を出した。
身体の動きはすこぶる調子がいい!
次の記録会は目標であった10秒3を目指す事だ。
ライバルの笠原君に勝ち、日本インカレに出場するためには
最低、10秒3を出したかったのである。
もうひとつ気になることもあった。
この年、新入生に鈴木が入ってきたのである。
(彼は後に日本チャンピオン、バルセロナオリンピックに出場する。)
日本インカレの4×100MRの選手争いに鈴木が加わった。
そして、3回目の記録会が行われた。
この記録会の成績で、東海インカレ、日本インカレの選考が決まってくる。
何がなんでも自己ベスト記録、目標記録である10秒3を出すと意気込んだ。
プログラムを見て驚いた。
なんと、鈴木と同じ組であり、しかも隣りのコースだった。
『負けられない!!』
闘争本能に火がついたかのように鬼の形相でウォーミングアップを開始した。
この勝負に勝てば、日本インカレの4×100MRメンバーになれる。
勝ことだけを信じてレースを迎えた。
鈴木を意識しながらも、いつもの様にゴールを見つめてスタートラインに着いた。
好スタートを切って、一気に鈴木を引き離した。
しかし、30Mを過ぎたあたりで左足大腿二頭筋に痛みが走った。
一瞬、やめようかと思った。
ものスゴイスピードの中で走りながら色んなことを考えていた。
゛ここでやめて、鈴木に負けたら4×100MRの選手にも選ばれない゛
やめる訳にはいかないと判断してそのまま走り通した。
軽い肉離れを起こしたまま走り抜け、記録は10秒5であった。
まわりに悟られないようにケガをしたようには見えないようにした。
気も張っていたせいでその場ななんとか誤魔化していたが
寮に帰る頃にはズキズキ痛み出したのである
友人に撮ってもらったビデオを見ながら動作をチェックして見たが
当時の私はなぜ?ケガをしたのかまったく分からなかった。
今は理解出来るのだが、大腿四頭筋の鍛え方を間違っていたのである。
ブレーキの筋肉を鍛えすぎるとスピードを殺してしまうのだ。
せっかく大臀筋やハムストリングでスピードを生んでくれているのに
大腿四頭筋の力が勝ると共縮になり筋肉にかなりのダメージを与えることになる。
逆収縮する現象に筋膜も筋肉も耐え切れずに傷めてしまうのである。
好調であった私は悲鳴を上げ始めていた筋肉の声を理解出来ていなかった。
もうひとつ残念で仕方ない事がある。
それは、親指で一生懸命に地面を蹴っていたことである。
当時、拇指球や親指で地面を力強く蹴れ(押す)と言われていた。
今、もし私が現役選手ならば決して親指は使わない。
なぜなら、親指の役目はブレーキを強くするためスピードを止めてしまうのである。
特にスタートダッシュの場面においては
まず、スタートブロックを蹴る(押す)時も親指がリードし
30Mまでは加速するために親指でしっかり地面に力を伝えて
スピードを生むものだと信じていたのである。
しかし、実際は逆でスピード止めるブレーキをかけていたのである。
フルアクセルを踏み込みながらフルブレーキをかけた車を想像して欲しい。
車が壊れても当たり前の話である。
私の身体が悲鳴を上げ、筋肉をケガしても当たり前の話だった。
悲しいかな、まだ親指で一生懸命に地面を蹴って(押す)いる人が後を絶たない。
東海インカレまで2週間しかない。
その2週間後は全日本インカレがある。
私は悩んだ。
東海インカレまでにこの足は治るだろうか?
しかし、打倒、笠原君で日本インカレの100Mに出場するために頑張ってきた。
でも、日本インカレまでには1ヶ月あるその頃には走れるだろう。
私は決断をして、短距離のコーチに相談をしに行った。
東海インカレをやめて全日本インカレの4×100Mリレーにかけさて欲しいと。
しかし、短距離のコーチからこう言われた。
『松村が4年間、努力した結果を出す時だ!しっかり東海インカレで笠原と勝負してみろ!!』
また悩みに悩んだ。
思わず父に電話をかけた。
今までの経緯をすべて父に話した。
『お父さん、勝ちたいんや!出来る事なら、どうしても走って笠原君に勝ちたいんや!!』
泣きながら父に訴えた。
泣きじゃくる私に父は力強い言葉で語ってくれた。
『短距離の先生がそこまでお前の男気を買ってくれているならば思いきって勝負してみんかい!』
父の言葉を聞いて、勝負することを決意した。
父も100Mの選手だった。
大阪チャンピオンで国体にも何度も出場し3位の成績を持ち
リレーでは優勝の経験を持つ猛者であった。
その父から治療方法を教えてもらい毎日針と温泉に通う。
梅月寮から一番近い、猿投温泉に通い半身浴で温めては冷やし
温冷、温冷を繰り返して強張った筋肉をほぐした。
毎日、温泉に入りながら泣いた。
もし、あのレースでケガをしなければ間違いなく10秒3は出たはずだ。
ケガで自分の夢が壊されていくのが本当に悔しくて心底泣いた。
励ましてくれる両親の言葉だけを信じて必死で不安と戦っていた。
そして、I先生のいる鍼灸院にも通い詰めた。
I先生には東海インカレまでには100%とは言えないけれど
70%位なら回復するだろう辛抱しながら頑張るんだよと励まされた。
本当に辛い日々であった。
ケガのない状態で笠原君と勝負したかった。
しかし、愚痴を言っても仕方がない。
自分を信じて足のケアをする以外何も出来なかった。
東海インカレまで後1週間、勝つことだけを信じて足の回復を願っていた。
次回の内観力は『ケガより辛い試合観戦』です。