第15回 内観力『現れなかった、あの感覚、、、、』
宮城県選手権を終えてから、うれしい知らせが入った。
当時、宮城陸連の強化委員長であった、(故)二階堂 邦博先生のお陰で
南部忠平記念陸上に出場できることになった。
10秒2で走った、東日本実業団陸上での成績が評価されたようだ。
しかも、北海道国体が開催された厚別陸上競技場で行われる。
もう一度、忘れられないあの走りを再現したいと胸躍らせた。
メンバーは、ツワモノぞろいであった。
それもそのはず、東京で行われる世界陸上の最終選考会を兼ねている。
嫌がおうにも、テンションは上がる。
『一泡吹かせてやるぞ~!!!』
意気込んで、北海道に乗り込んで行った。
そして、当日、、、、
目を閉じて、あの感覚を思い出しながら、サブトラックでアップをした。
その時の光景が走馬灯のように甦ってきた。
身体の動きはとても良かった。
気持ちも盛り上がり、やる気満々でスタートラインに付いた。
あの時と同じ走りが出来るようにと、、、、
しかし、結果は予選落ち。
調子は決して悪くなかったのだが、スタートで突っ込みすぎて
スパイクのピンでつまずいてしまいバランスを崩してしまった。
バランスを整え直して、走ったが、もう後の祭り、、、、
両親も見に来てくれていたが、言葉が出てこなかった、、、、、、。
阿部正道選手は、3位に入り、東京で行われる世界陸上の代表選手に選ばれた。
9月に行われた、東北選手権に出場したが結果は、10秒72で5位。
残るは、10月に行われる全日本実業団で今シーズンも終わる。
東日本実業団以降、なかなかいい走りが出来ない状態が続いていた。
そして、10月になり、岐阜で行われた第39回全日本実業団を迎えた。
両親も仙台から応援に来てくれた。
なんとしてでも、いい走りをして、3位までに入りたかった。
10秒2で走ったことが、まぐれではないことも証明したかった。
予選は、難無く通過した。
決勝では、ライバルである笠原選手や不破さんもいた。
追い風もいい感じで吹いていたので好記録を願った。
結果は、10秒80で6位。
笠原選手(7位)と同タイムであったが勝つ事が出来た。
優勝は、不破さんで、10秒52で完敗であった。
東日本実業団では、ラスト10Mまで不破さんに勝っていて
最後に抜かれて負けてしまったが今回は全く話にならなかった。
どうしたら、不破さんのように後半、爆発的な加速が出来るのか知りたかった。
恥を忍んで、おもいっきって不破さんに聞いてみた。
『どうしたら、不破さんのように後半、速く走れるようになるのですか?』
と尋ねてみたら、以外な答えが返ってきた。
『どうしたら、松村のように前半速く走ることが出来るんだい?』
と言われて、正直、面食らって、返答に困ってしまった。
その様子を見て、不破さんが話始めた。
僕も高校時代に言われたのが
『不破は、あれだけ前半が遅くて10秒34だから前半を速く走れたら、9秒台で走れるぞ!!』
苦手なスタートを克服するために、一生懸命にスタートの練習をしたらしいが
スタートが上手く出来るようになった時には、持ち前の後半の爆発的な走りが消えてしまったそうです。
東日本実業団の時は、松村に80Mまで完全に負けていた。
ならば、次は、85Mまで完璧に走れるようにすればいい!!
85Mもつようになれば、今度は、90Mを目指して、最終的に、100Mを走りきれるようにすればいいんじゃないか!!
自分も持ち味を生かしながらレベルを上げていく事を考えた練習をした方が良いとアドバイスしてくれた。
しかし、心の底から納得することが出来なかった。
後半まで、トップスピードをキープするために自分なりにトレーニングは積んできたつもりであった。
身長があまり高くない私は、大きな選手のストライドに比べたら負けてしまうので
カバーするために筋力アップして後半までスピードキープするためにピッチアップを高めてきたつもりだ。
が、繰り返し、繰り返し、ピッチアップの練習をするが上手くいかない、、、、
当時、ピッチアップの練習の内容は、モモあげ、ゴムチューブ引き、坂下りなどを
それこそ、一生懸命取り組んできたのだが、手足は早く動くのだが、走りに一向に結びつかないのである。
補強の時も、腹筋や背筋や腕立てもスピードを重視で取り組んでいた。
今、考えれば目を塞ぎたくなるものばかりだが、、、、、、
この時、すでに身体のバランスが崩れ始めていたが、その事には、全く気が付かない私であった
そんな事も知らず、来季、いい走りをするために更なるパワーアップをウエイトトレーニングに求めていった。
年が変わって、1992年。
正月明け早々、宮城県の合宿で沖縄で走りこんでいた。
今年こそはと意気込んでいたが、ケガに泣かされる3年間を経験することになろうとは
この時、夢にも思っていなかった私であった。
次回の内観力は、『とうとう、走れなくなった、、、、』です。
当時、宮城陸連の強化委員長であった、(故)二階堂 邦博先生のお陰で
南部忠平記念陸上に出場できることになった。
10秒2で走った、東日本実業団陸上での成績が評価されたようだ。
しかも、北海道国体が開催された厚別陸上競技場で行われる。
もう一度、忘れられないあの走りを再現したいと胸躍らせた。
メンバーは、ツワモノぞろいであった。
それもそのはず、東京で行われる世界陸上の最終選考会を兼ねている。
嫌がおうにも、テンションは上がる。
『一泡吹かせてやるぞ~!!!』
意気込んで、北海道に乗り込んで行った。
そして、当日、、、、
目を閉じて、あの感覚を思い出しながら、サブトラックでアップをした。
その時の光景が走馬灯のように甦ってきた。
身体の動きはとても良かった。
気持ちも盛り上がり、やる気満々でスタートラインに付いた。
あの時と同じ走りが出来るようにと、、、、
しかし、結果は予選落ち。
調子は決して悪くなかったのだが、スタートで突っ込みすぎて
スパイクのピンでつまずいてしまいバランスを崩してしまった。
バランスを整え直して、走ったが、もう後の祭り、、、、
両親も見に来てくれていたが、言葉が出てこなかった、、、、、、。
阿部正道選手は、3位に入り、東京で行われる世界陸上の代表選手に選ばれた。
9月に行われた、東北選手権に出場したが結果は、10秒72で5位。
残るは、10月に行われる全日本実業団で今シーズンも終わる。
東日本実業団以降、なかなかいい走りが出来ない状態が続いていた。
そして、10月になり、岐阜で行われた第39回全日本実業団を迎えた。
両親も仙台から応援に来てくれた。
なんとしてでも、いい走りをして、3位までに入りたかった。
10秒2で走ったことが、まぐれではないことも証明したかった。
予選は、難無く通過した。
決勝では、ライバルである笠原選手や不破さんもいた。
追い風もいい感じで吹いていたので好記録を願った。
結果は、10秒80で6位。
笠原選手(7位)と同タイムであったが勝つ事が出来た。
優勝は、不破さんで、10秒52で完敗であった。
東日本実業団では、ラスト10Mまで不破さんに勝っていて
最後に抜かれて負けてしまったが今回は全く話にならなかった。
どうしたら、不破さんのように後半、爆発的な加速が出来るのか知りたかった。
恥を忍んで、おもいっきって不破さんに聞いてみた。
『どうしたら、不破さんのように後半、速く走れるようになるのですか?』
と尋ねてみたら、以外な答えが返ってきた。
『どうしたら、松村のように前半速く走ることが出来るんだい?』
と言われて、正直、面食らって、返答に困ってしまった。
その様子を見て、不破さんが話始めた。
僕も高校時代に言われたのが
『不破は、あれだけ前半が遅くて10秒34だから前半を速く走れたら、9秒台で走れるぞ!!』
苦手なスタートを克服するために、一生懸命にスタートの練習をしたらしいが
スタートが上手く出来るようになった時には、持ち前の後半の爆発的な走りが消えてしまったそうです。
東日本実業団の時は、松村に80Mまで完全に負けていた。
ならば、次は、85Mまで完璧に走れるようにすればいい!!
85Mもつようになれば、今度は、90Mを目指して、最終的に、100Mを走りきれるようにすればいいんじゃないか!!
自分も持ち味を生かしながらレベルを上げていく事を考えた練習をした方が良いとアドバイスしてくれた。
しかし、心の底から納得することが出来なかった。
後半まで、トップスピードをキープするために自分なりにトレーニングは積んできたつもりであった。
身長があまり高くない私は、大きな選手のストライドに比べたら負けてしまうので
カバーするために筋力アップして後半までスピードキープするためにピッチアップを高めてきたつもりだ。
が、繰り返し、繰り返し、ピッチアップの練習をするが上手くいかない、、、、
当時、ピッチアップの練習の内容は、モモあげ、ゴムチューブ引き、坂下りなどを
それこそ、一生懸命取り組んできたのだが、手足は早く動くのだが、走りに一向に結びつかないのである。
補強の時も、腹筋や背筋や腕立てもスピードを重視で取り組んでいた。
今、考えれば目を塞ぎたくなるものばかりだが、、、、、、
この時、すでに身体のバランスが崩れ始めていたが、その事には、全く気が付かない私であった
そんな事も知らず、来季、いい走りをするために更なるパワーアップをウエイトトレーニングに求めていった。
年が変わって、1992年。
正月明け早々、宮城県の合宿で沖縄で走りこんでいた。
今年こそはと意気込んでいたが、ケガに泣かされる3年間を経験することになろうとは
この時、夢にも思っていなかった私であった。
次回の内観力は、『とうとう、走れなくなった、、、、』です。