研究レポートReport

第13回 内観力『感動の再会、10秒2の感覚!』

北海道国体の100Mで7位入賞した後に行われた4×100MRに出場した。
宮城県チームのアンカーを務めてさせて頂き、見事5位入賞と宮城県新記録を樹立した。 

準決勝で出した ゛40秒62゛は、長い間破られることはなかった。


しかし、リレーの決勝で軽い筋膜炎を起こしてしまった。
ラスト40M辺りでピクピクしていたが負けたくない一心で走り通した。
念のためにレース終了後、トレーナーの方に見て頂いたが2~3週間で治ると言われた。 


今シーズン最後のレースであった西日本インカレの出場をケガのために辞退した。
素晴らしい走りをもう一度、熱が冷めないうちに走りたかった。

大学生で陸上競技をやめようと思っていた私であったが
北海道国体の決勝を走り、日本一とわずか一歩の差まできたことと
準決勝で走ったあの感覚を忘れることが出来ずにいた。

正月休みに仙台に帰ってから進路のことを父と話した。

父は納得いくまで思い切ってやればいいと言ってくれた。
中京大学を拠点にトレーニングを続けることにした。

更なる飛躍を心に決めてトレーニングもレベルアップしたかった。
ライバル達と練習場が同じなので誰にも見られずに練習がしたかった。

当時、チャックウイルソンという外人さんがいた。
確か柔道か何かやっていた方だがあるジムで指導もしていると聞きそのジムに早速入会した。
たまたまジムに行ったときにチャックウイルソンが来ていて目の前で
200キロのベンチプレスを目撃してしまったのである。

゛本気でオリンピックに出場したいんです!゛

そのためにパワーアップをしたいんです!とチャックウイルソンに相談してみた。
オリンピックに出場するならば相当の筋力アップが必要になってくる
私がメニューを組んであげようと快く言ってくれたのであった。

真面目な私は真剣にそのトレーニングを行った。
ライバル達に勝ちたい一心で懸命にトレーニングに打ち込んだ。
身体はみるみるうちに筋肉がついてきた。
しかし、ジムにあるトレーニングマシーンをした影響か肩の回り方がおかしかった。

卒業式を終えて中京大学の近くのアパートに住んだ。

寮生活では、賄いのおばさんが料理を作ってくれたが
一人暮らしになると食事の用意は全て自分がしなくてはいけない。
アスリートにとって栄養のバランスは大切だが私は悪戦苦闘の連続だった。

北海道国体の成績が評価されて、5月に静岡で行われる静岡国際の100Mに出場できる事になった。
試合に向けてスピード練習に入ったがすぐにまたケガをしてしまったのである。
明かにパワーアップをしたのだが動作がスムーズにいかない。
キック力は自分なりに凄みをましたと思っていたがまたケガに泣かされた。
やもえず、静岡国際の出場を辞退した。


この年は結局、まともに走れる試合は一度もなかった。


そして、秋に父の体調が悪くなり、長男でもある私は仙台に戻ることを決意した。
中京大でのトレーニングを積み重ねたかったが仙台でもやる気になれば出来るだろうと考えなおした。

年が明けて、平成3年、父の経営する会社、有限会社 松村商店で登録。
再スタートを切ることにした。

5月に行われた宮城県の春季陸上を10秒72で走る。
久しぶりのレースだったが、まずまずの感触をつかんだ。
そして、一週間後、運命の東日本実業団を迎える。



第33回 東日本実業団が神奈川県の平塚で行われた。

春季陸上から一週間しかなかったので軽めの調整をしたが試合当日の身体の反応は決して良くなかった。
何と言ってよいのか分からないのだが身体が軽いという感覚ではなく、微妙に身体に張りがあるというか
身体が少々硬いというのか、でもグイグイと身体は前に進んでいく妙な感覚で自分ではよく分からないコンディションの中
予選のレースが始まっていった。


予選を10秒5で1位で通過。

準決勝も10秒5で通過して決勝に進んだ。

決勝で宿敵のライバル笠原君と対決することになった。
北海道国体以来の対決であったが心はやけに静かであった。

1コース 笠原 隆弘 富士通
2コース 松原 薫  ナイキジャパン
3コース 滝川 年一 ゼンリン
4コース 松村 卓  松村商店
5コース 不破 弘樹 大京
6コース 市川 武  ゴールドウィン
7コース 坂口 裕幸 北園高教
8コース 田中 一郎 ゼンリン

向かい風が強かったのでバックストレートで行われた。
そのために手動計時であった。

スタートして3歩目くらいで一瞬、つまずきそうになった。
いつもなら焦ってしまい顔を上げて力んでしまう私なのだが
また、顔を下にしてスタートを失敗してしまった事をまるで他人事のように走る私がいた。

実はこのつまずくかつまずかないかのギリギリで走ることが自然な重心移動に繋がっていたことを知るのは5年後のワールドウィングであった。

走りながら顔をあげていく私は、冷静な気持ちで、前方にいる松原さんや滝川さんの動きを見ながら走っていた。
そして、フッとゴールテープを見ていると私の方に近づいてくる感覚が身体に湧き起こる。
70M付近までとなりの不破弘樹さんに勝っていたので3位までに入れると思ったが90Mでつかまりそのままゴールに飛び込んだ。

正直、順位は4位とすぐに分かった。
3位内に入れば、海外の試合に出場できたので負けたことが悔しかった。
念願のライバル笠原君に勝ったことも忘れてしまうくらい悔しかった。
レースが終わり、父の所に行くとストップウォッチを片手に興奮気味に話かけてきた。 



卓、今のタイムは何秒くらいと思う?


しかし、私はスタートでつまづき後半差された悔しさから10秒9くらいではないかと答えたら
父はそんなバカなことはない!と逆に怒りだした。
゛いいから、このタイムを見てみろ!゛と言われてストップウォッチを見てみると
何と10秒2で止まっているではないか!


とても信じられない!


あの走りでなぜ? 10秒2なんか出るわけがないと思っていたが
正式発表でも間違いなく、10秒2であった。
追い風参考記録だが生まれて初めてとんでもない記録を出した走りが納得できないのである。

まるで座禅をしているかのようにもう一人の自分と対話しているかのように静かに静かに走っているのである。
ゴールにも迎えに来てもらえ、考えれば考えるほどあの走りがなぜ?出来たのがわからなくなる。
帰りの新幹線でうれしくて乾杯をしている父には悪いことをしたのだが私は一人不機嫌な顔をしていた。

10秒2を出して不機嫌なんておかしい話だがなぜ?走れたのかが分からないのである。 


一年間、ケガで走れなかった。
その間に、北海道国体で遭遇した『あの感覚』を忘れていた。
パワー、パワーを信じてウエイトトレーニングに力を注ぎ込んでいた。
いつも調子がいい時は身体が軽いとか足の動きが軽快だとかで判断できていたが
今回は正直、今までとは違う身体感覚なのである。

この時の私のレベルでは到底分からないのがある意味当然のことでした。

末端部の動作レベルがいくら速くても意味はないのである。
身体動作が体幹部から末端部に自然に流れていくときは地面反力をしっかりもらうことが出来る。
各関節にかかる負担も最小限になるため自然に動作が滑らかになり動作がシャープになってくる。
しかも、筋出力が自然に流れていくので筋肉にかかる負担もなく疲労物質の乳酸の発生も少なくなる。
当然、動作はスムーズになり疲労感はないのでいい動作を長く持続することが可能になってくる。
現在、取り組んでいる地面の接し方の動作が出来れば凄い力を生かすことが出来るのである。

悲しいかな、偶然に出来た動作であった。
当時の私は何故、いい走りが出来たのかが全く理解できていない。
頼りになるのは練習メニューと時間が経つにつれて忘れてしまう『あの感覚』。
感覚に頼ってしまうからズレることがあってもまとまっていくことは少ない。
私が、自分の動作を意識して改善する方法を見つけていくまでにはまだまだ遠い道のりであった。



次回の研究レポートは『骨盤ドリル?、、、、』です。

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