研究レポートReport

第28回 内観力 『最悪の全日本実業団、そして最後のレース、、、、』

不安な気持ちを払拭できないまま神戸駅に着いた。

宿泊先で家内と待ち合わせをしていた。
ケガをした事を家内にもまだ伝えていなかった。
私の最高の走りを家内の目の前で見せたかっただけに歯痒い気持ちで一杯であった。

夜、家内と食事をしながら本当のことを告げた。
最初はビックリしていたが私に気遣いながら優しい笑顔で励ましてくれた。

この日の夜は全然眠ることが出来なかった。

頭に浮かんでくるのは私の快走を心から信じて待ってくれている父のことであった。
本来ならば家内と一緒に神戸に応援に来る予定でいたのだが不景気の波が押し寄せて商売の方も大変であった。
誰よりも息子の走りを生で見たいだろうに我慢して現場で陣頭指揮を取っている。

"父になんてお詫びをすればいいのだろうか?"

今の足の状態では勝負など出来るはずがない。
予選すらまともに走れるかどうかのレベルだ。
考えたくもないがワザとフライングをして失格になってしまおうか、、、、
考えれば考えるほど苦しくなり、辛さが増してきて寝返りをする度に悶えていた。

そして、試合当日の朝を迎えた。

家内と一緒に競技場へ向かった。
昔、ユニバーシアードが行われた立派な競技場であった。
本当なら心に残る記念すべき競技場になる予定であったが過去に例がないほど走りたくない試合である。
複雑な気持ちを抑えることが出来ないままウォーミングアップを始めた。

身体は正直である。

痛いものは痛い。

"ここで無理をして国体最終選考会に間に合わなかったどうしようか?"

やはり棄権するべきか?
いや、ワザとフライングをして失格になるべきか?

こんなことを考えながらジョッグをしている自分が本当に情けなかった。

出来ることならこの場から逃げ出したかった。

万全の体調でこの試合に臨むためにワールドウイングに行った。
つい数日前には、10秒2の最高のいい走りができた私がいたのも事実である。

しかし、今、ここにいる私は最悪の状態でいることだけは間違いはなかった。


結果は見事、予選落ち。
痛い足をただ引きずりながら100mを走っただけで終わってしまった。
こんな虚しい気持ちで100mを走ったことはなかった、、、、


試合終了後、父に電話をした。

"すみません、予選落ちでした、、、、"

この一言しか言えなかった。
言った瞬間に涙が込み上げてきてすすり泣いていた。

私の様子を電話口から察したのか父は何も聞かないでくれた。

『気をつけて仙台に帰ってこい!』

それだけを言って電話を切った。


家内にも泣きながら頭を下げるしかできない私であった。



仙台に戻った日の夜、仕事先で父と会った。

今回の試合までのことを包み隠さず父に話した。
父は、試合のレース中にケガをしたと思っていたので
まさかワールドウイングでケガをしていたとは夢にも思っていなかった。

"ケガをしない身体つくりをするためにワールドウイングに通っていたんじゃなかったのか?
  それではお前は何のためにワールドウイングに行っていたんだ!
    いくら練習中にいいタイムを出したって本番の試合で結果を出さなければ意味がないんじゃないか?"

父の言う事に何の間違いもない。

まさにその通りである。

反論する余地も何もない。

いろんな思いが込み上げてきて言葉にしようとしても
なかなか言葉に出来ず、ただただ悔しくて目に涙を溜めるしかなかった。

父は、大阪国体の予選会までに足が治り
まだ私に走る意欲があるのなら試合に出ればいいと言ってくれた。

私は、このままでは終われない気持ちで一杯だったので
願わくば挑戦したいと父にお願いした。

"ワールドウイングで、10秒2で走れた、あの走りが出来れば勝てるはずだ!"


この時の私の僅かな希望はこれしかなかったのである。


国体予選に標準を合わせるために7月の宮城県選手権の出場を見送り治療に専念した。 

ケガの回復状態を見ながら出来る練習から始めていった。

走る練習があまり出来ない分、ほぐしは多めには行っていた。
せっかく向上してきた筋肉や関節の柔軟性や可動域のレベルを下げないように注意した。 


そして、ようやく痛みも治まり全力疾走の練習が出来るような状態になり本格的に走る練習を再開したのだが
なぜか、以前の様なキレのある走りが出来なくなっていた。

そればかりではなかった。

ケガをする前のスタートダッシュや中間疾走にしてもいい走りが出来ない。
何本走っても、何回スタートダッシュをやっても納得いく走りが出来ない状態に首を傾げた。

小山先生の前で走った、10秒2の走りは一体何処にいってしまったのか?

せっかく走れるようになってきたと言うのにワールドウイングで最高に走れていた状態には
程遠い走りになってしまった。

"なぜ、あの走りが出来ないんだろうか?"

唯一、頼りにしていた『あの感覚』。

あの感覚を追いかければ追いかけるほど遠のいてしまうようであった。



そして迎えた国体最終選考会の日。


家内も両親も応援に駆けつけてくれた。
当の私は、勝ちたい気持ちは誰よりも強かったが同じくらい不安な気持ちでいた。
スタートダッシュが上手くいかない為に中間疾走から後半の走りも繋がってくれない。 


焦りと不安と勝たなければならないという気持ちで胸が張り裂けそうであった。

予選は、ガチガチに固まりながら走ったが何とか1位で通過した。
しかし、記録は悪すぎて話にならない。
気持ちと身体が空回りして走りになっていなかった。

決勝を迎えるまで何度もスタートダッシュを行いながら確認ばかりしていた。

落ち着かなければいけない事は分かっているのだが
勝ちたい一心で何とか動作を修正しておきたかった。

そんな私の姿を見て、父が語りかけてきた。

『卓、今まで取り組んできたことに自信を持って走ればいい
 ゴールに小山先生がストップウォッチを持って待っていると思って走れ!』

父の温かい言葉を聞いて正直に嬉しかった。

決勝のスタートラインについた私は長い間ゴールを見つめて頭を下げた。

スタートは案の定遅れてしまった。
腕や肩に力が入ってしまい顔をすぐ上げてしまった。

"負けられない、、、、"

この気持ちが一層、力んだ走りに変わっていく。
走れど、走れど前に進んでくれず先頭をいく選手に追いついていかない。
100mって、こんなに長かったのだろうかと思うくらい長く感じた。

ラスト20mあたりで私は完全に諦めてしまった。

結果は3位。

大阪国体出場の夢は消え伏せた。
レース後、誰とも話しをしたくなかった。
観客席に居る両親や家内の所にもなかなか顔を出せないでいた。

絶望感を漂せながら重い足取りで観客席の方に向かった。

家内の隣にポツンと座り下を向いていた私に父が話しかけてきた。

『卓、おまえラストで力を抜いただろう!』

図星であった。

しかし、そうだとは言えず、"いや、抜いてなんかいない!"と答えた。

父は続けてこう話た。

『全力を尽くしても勝てない試合がある、その場合は仕方がない、でも悔いは残らん
  でもな、レース中に勝負を諦めて力を抜くことは最低最悪のことだぞ!』

ノックアウトだった。



本当は、この研究レポートは出来れば書きたくなかった。
なぜならば一番、思い出したくないレースであったからだ。

今日は、偶然にも亡き父の命日であった。
父が亡くなって11年が経つ。
研究レポートを書きながら父の事を思い出していた。


結果的に私は、このレースが現役最後のレースになってしまったのだ。
(詳しくは、これからの研究レポートに書いていきます。)

ワールドウイングに行った時には、なぜ、いい走りが出来て
仙台に帰ってきてから練習をすると上手く走れないのだろうか?

この疑問を、この時の私は理解できない状態でいた。

・いい動きをしていたのに出来なくなる現象は、なぜ、そうなってしまうのか?

・同じ事をしっかりと行っているはずなのに、なぜ、同じように走ることが出来ないのか?

・あまりの再現性の低さ、、、、どうしたら再現性を高めることが出来るのか?

・どういう意識で身体を動かせば常にいい動作を続けれるのだろうか?

・小山先生に見てもらわなければ常にいい走りは永久に出来ないのだろうか?

・他に、再現性が高くなる方法はないのだろうか?

どうすれば、いつでも最高の走りをすることが出来るのであろうか、、、、、


この答えを私は探し始める。


次回の内観力は、『指導をすることで見えなかったことが観えてきた』です。9月20日の予定です。

<< 目次に戻る

このページのトップへ